耳赤の一手

囲碁愛好家の間で今でも語り継がれている一局に「耳赤の一手」があります。棋力が著しく伸び、その名も全国に響き渡るようになった、秀策十八歳の時の逸話です。

 秀策は二度目の帰郷から江戸に帰る途中大阪に立ち寄り、当時準名人位(八段)として名をはせた十一世因碩と対局します。勝負は中盤まで因碩が有利な形勢で進み、秀策が長考を重ね百二十七手目を打ったその時「秀策の勝ち」を予言する男が現れます。その男は医師で、理由を尋ねる門人達に「あの一手で因碩師の耳が赤くなった。動揺し自信を失った証拠」と述べたそうです。

 予言通り形勢は逆転し、秀策が勝利します。この一手は、秀策の気力と天分が凝縮した究極の一手だといわれています。

●橋本竹下「安田秀策の東行を送る」

橋本竹下「安田秀策の東行を送る」

秀策の才能を見いだした橋本竹下が、益々強くなる秀策を讃えた漢詩。

江戸の囲碁家元四家

江戸時代初期、徳川家康は囲碁を保護発展させる狙いから、当時最強といわれた本因坊算砂を初代名人碁所として任命しました。それ以後も碁所を預かる棋士は名人に限定し、本因坊家に続き、井上家、安井家、林家を家元四家として認め、それ以降この四家が碁所を預かるために競い合うようになりました。

秀策が生まれた江戸時代後期、囲碁界は黄金期ともいえる時代。家元四家はその家の地位をより強くするため、全国から才能のある若者を集め英才教育で鍛えていったため、益々レベルは高まっていきました。幾多の才能が覇を競いあった家元制度の攻防は、明治維新まで続きました。

本因坊秀策


本因坊秀策囲碁記念館

尾道市因島外浦町121-1
 
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尾道市囲碁のまちづくり推進協議会